藤原宮関連の遺跡の現地説明会に行きました
昨日は、曇のち晴れ、という好天でした。奈良新聞に先週、遺跡発掘で発見あり、と3つの記事が続けて報じられており、最後には、日曜はそれらで説明会をするので、この機会に藤原宮に思いを馳せては?みたいな書き方をされていました。なので、行ってみました。電車で近鉄の畝傍御陵前駅で降り、3つ回ってJRの畝傍駅から乗車して帰りました。歩数は約17,000歩。
<四条遺跡>
県立医大のグランド。3年間の調査の最終年だそうです。今回、藤原京、古墳、弥生時代の遺構が見つかりました。
上の写真の右奥が、古墳。円墳に作り出しが付いています。手前側が作り出し。溝で形が分かります。わかりやすい写真も掲示されていました。
<藤原京期の邸宅跡>
四条遺跡からほど近いところ、ここも県立医大のグランド。
藤原宮も、碁盤の目のような道で土地を区切っていたのですが、その道幅が17mくらいだ、ということが分かるのと、その道から60メートルくらいのところを真ん中にして、3つの建物の跡(柱)があります。役職にある貴族は、位に応じて碁盤の目を1つ~4つ(たとえば、長屋王は平城宮だけど4区画をもらっていた)もらって屋敷をたてたそうです。ここの遺跡の場合、道から60m(大路と大路の間は133メートルくらいだそうです)のところに建物の真ん中が来ているので、1区画をもらって住んでた貴族、となり、日本書紀の記述から、5位以下だったのだろう、とわかるそうです。説明を聞かないと、こんなことは絶対にわからないですねー。
そして、ここにも弥生時代の遺跡が出ました。人為的に堀を作って、環濠集落をつくっていたようです。弥生時代の土器も出ており、装飾がされていることから、初期の遺跡、というように判断されるようです。そして、その堀の近くに、石包丁やそのつくりかけが多数でているので、石包丁制作集団がそこにいたのだろう、という推測もできるとか。
<藤原宮 大極殿の東側>
四条町の邸宅跡の現場から約1時間歩いて、藤原宮へ。昔の人は出勤も大変だったろうなあと思いつつ移動しました。1時半の説明会に間に合いました。
ここの説明で、建物を建てるときは、溝を掘って目印にした、と知りました。
また、四条遺跡もそうでしたが、大きめの溝を作って、建築資材の運搬に使ったりもしたようです。そういった溝は藤原宮建築時には埋め戻しています。
今回の発掘は、何もでないだろうなあ、という感じでされたようですが、予想に反して北に延びる回廊が途中で分岐していて、大極殿院を南北に区切っていた、ということがわかったそうです。それは、難波宮とも共通するそうです。
。。。正直、3か所めで、暑いし、おなかは空いてたし、説明を集中して聞けず、申し訳ない。
…以上が今回の見学メモです。
せっかく藤原宮跡に来たので、コスモスを見て帰りました。